Vol.8
この人と「食」トーク (東海林のり子さん)

季刊 つるつる インデックスページ
1934年埼玉県生まれ。ニッポン放送に入社しアナウンサーになる。71年以降、テレビに転向し数々の情報番組やワイドショーのリポーターを務める。代表的な番組は「おはよう!ナイスディ」、「ワイド!スクランブル」「3時のあなた」など多数。キャスター、司会者、コメンテーターとしても活躍。現在はインターネットのYAHOOテレビでロック番組の司会も務める。趣味は映画鑑賞、ロックコンサートに行くこと。

自分がワクワクすることを思い描きましょう
「それでは現場の東海林さん、お願いします」――ワイドショーの事件リポートで活躍されてきた東海林のり子さん。現場を大切に、数々の印象深いリポートを残してこられました。情報番組の草創期のエピソード、事件リポーターとして感じたこと、ロックとの出い、そしてそのバイタリティーの秘訣などを伺いました。



ラジオのアナウンサーから出発
――ラジオからスタートされました。
東海林
 女性の就職先が少なかった時代、最初は国際線の客室乗務員を志望していたんです。でも容姿端麗が条件で、身長制限もある。これは駄目だと。当時はラジオ全盛、ニッポン放送が開局3年目で新人アナウンサーを募集していました。ラジオなら容姿も身長も関係ないと、入社試験を受けたんです。応募者は2千人!到底無理と思っていたのですが、受かったんですね。でも、8人が採用されたのですが、私以外は皆、学生時代に放送研究会などで学んできた、いわば即戦力で……。
――大変だったのでは?
東海林
 よく怒られたし、辞めようと思ったこともありました。でも私は、他人と競争して前へ出ようという気持ちがあまりないんですね。9年位の間に同期が少しずつ辞めていって、私一人が残っていた。その頃からですね、頑張ってみようと思ったのは。ラジオの仕事がおもしろくなってきた。
――その後、テレビへ?
東海林
 入社3年目に、ニッポン放送系列でフジテレビが開局しました。それからは、あっと言う間にテレビの全盛時代に。私はラジオの仕事を続けましたが、出産を機に退職し、フリーのアナウンサーになりました。そのときテレビから誘われたんです。その日の天気予報や野菜の値段、ダイエットの方法など、情報を盛りだくさんに入れた「スーパーのチラシのような番組」を作るから参加しないかと。
――「情報番組」の原形ですね。
東海林
 そう。当時は野菜が高かったんです。それなら生産者から直接買えば安く提供できるという発想で、団地で「産地直送バーゲン」をやって中継したんです。画像はモノクロで、カメラも1台しかない中、「大根が安いですよ!」っていう感じで(笑)。この番組によって、テレビで野菜や魚が売れることが分かった。それなら他の商品も売れるんじゃないかと、テレビショッピングへ発展していったんです。
――そういう経緯があったんですね。
東海林
 番組を続ける過程で、ビデオカメラが開発され、屋外の取材が可能になりました。何かが起こると、すぐに駆けつけて、取材をして局へ持ち帰って放送する。今起こったことをすぐに報道できるので、「熱い番組」を作れましたね。1972、73年頃のことです。この番組は8年程担当しました。

事件リポーターとしての日々
――その後、事件リポーターに?
東海林
 しばらくは子育てに専念していましたが、急にフジテレビの「3時のあなた」という番組から声がかかったんです。小さな子供が犠牲になった事件をリポートしてほしいと。当時、事件報道は男性リポーターが担当するのが一般的でしたが、事件の性質上、母親の立場でリポートできる人を探していたんです。「すぐに現場へ行けませんか?」「はい、行きます」。それが事件リポートを始めたきっかけです。
――当時の時代背景は?
東海林
 若者たちによる事件が急増していました。日航機墜落事故やホテルニュージャパンの火災など大きな災害も多かったですね。20年程、事件リポートをしましたが、最も衝撃を受けたのは阪神淡路大震災です。大震災が起きた1月17日に神戸に入ったのですが、現場はあまりにも凄惨でした。取材を重ねるうちに、自分自身の仕事も、けじめをつけなくてはいけないと強く思うようになったんです。
――人生観が変わったということ?
東海林
 というと大げさかもしれませんが……。ちょうどその頃、リポーターではなく、司会者として新番組の依頼がきていました。初めは断ろうと思っていたのですが、仕事にけじめをつける意味で引き受けました。以来、本格的な事件リポートはしていません。

「YESの法則」が元気の源
――ロックの取材もされています。
東海林
 12年前に、ロックバンド「X JAPAN」のラジオ番組にゲスト出演したのがきっかけ。すごく真面目な人たちだと感じました。武道館でライブをやるというので、「私に取材させて」とお願いしたんです。でもワイドショーのスタッフの返答は「NO」。「ワイドショーを観る奥様は、ロックなんて興味ない」
と言うんです。でも、どうしてもやりたいと主張して、何とかOKが出て。実際に放送したら、思った以上の反応だったんですね。
――その後、何か変化はありましたか。
東海林
 若い人たちから、身の上相談も含めたくさん手紙をいただくようになりました。その字がきれいなんですね。一所懸命書いているのが伝わってくる。この手紙を、その子のお母さんに送ってあげようとも思いました。実際は送らなかったのですが、「あなたのお子さんはこんなに立派な手紙を書いているんですよ」という思いを伝えたくなりました。その一方、暴走族など少年事件の取材もしました。彼らが共感するバンドの取材をしていたこともあってか、東海林さんだから取材OKという感じで受け入れてくれて。先入観で人を判断してはいけない。ロックの取材をしてきた経験が、少年事件の取材とも結びついてきました。これもX JAPANとの出会いから始まったこと。そうした「ちょっとした巡り合わせ」が大事なんです。
――すごいバイタリティーです。
東海林
 「YESの法則」と言っているんですが、私は仕事がきたら全部引き受けることにしています。物理的に現場に行けない場合以外は、「できる」「できない」という基準で仕事を断らない。私にはマネージャーもいません。営業に出向かなくてもくださる仕事はありがたいものですから。仕事を休んだのは出産のときだけ。他の人が休んだときのカバーはしてきましたが、自分が病気で休んで誰かに替わってもらったことがない。「疲れた」とも言わないですね。「疲れた」って言うと、疲れるんですよ。これが病気をしない
秘訣かな。


休日は散歩で主人とおそば
――趣味は?
東海林
 休日には主人と散歩や映画鑑賞に出かけます。散歩に出ると、ほどよい距離のところにおそば屋さんがあって、おそばを食べて帰ってくるんです。麺類は大好きですね。乾麺でも、茂野さんの手折りめんを見たときはびっくり!小さな鍋でも作れるし、味の種類も豊富ですよね。
――最後に読者にメッセージを。
東海林
 若い頃は、年をとると人生がつまらなくなると考えていました。でも常に目の前に人参をぶら下げるというか、目標を描くことが大切ではないかな。今度は北海道へ行こうとか、今度はおいしいおそば屋さんに行こうとか、何でもいいから自分がワクワクすることを、「できる」「できない」という基準をはずして思い描くことです。「先は短いよ」ではなく、「先は楽しいよ!」と考えましょうよ。



事件取材は結構、ハードな仕事ですが、そのおかげで身体も丈夫になりました。

取材:茂野製麺(季刊誌「つるつる」より)

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